大判例

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東京高等裁判所 昭和59年(う)836号 判決 1985年4月30日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

検察官の控訴趣意は検察官山口悠介作成の控訴趣意書に、弁護人の控訴趣意は弁護人牛久保秀樹作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官宮﨑徹郎作成の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これを引用する。

検察官の控訴趣意及び弁護人の控訴趣意第五について

論旨は、いずれも要するに、原判決は、被告人が罰金を完納することができない場合における労役場留置の期間を言い渡さなかった点において法令の適用を誤つているというのである。

そこで調査すると、原判決書の主文には「被告人を罰金一〇、〇〇〇円に処する。右罰金を完納することができないときは、金二、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予する。」との記載があるが、同判決書末尾括弧内の補足的記載によれば、右主文中のいわゆる換刑留置を定めた項(すなわち第二項)及び同判決書理由中のこれに関する部分は、原裁判所裁判官が本件判決を宣告するに際し朗読告知しなかつたことが明らかである。したがつて、原判決書の右部分は判決として成立していない(不存在)と認められる。そうしてみると、原判決は、罰金刑(執行猶予付)の言渡しをしながら、刑法一八条四項に従い労役場留置の期間を定めて言い渡すことを遺脱したものであつて、右は判決の内容における法令適用の誤りであり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨はいずれも理由がある。

弁護人の控訴趣意第四について

論旨は、要するに、本件現行犯逮捕は違法であり、したがつて原判決が、被告人の供述調書は不法拘禁中に得られた違法収集証拠であるから排除すべきであるとの原審弁護人の主張を排斥し、被告人の検察官に対する供述調書(自白)を証拠として有罪を認定したのは、訴訟手続の法令違反であるという趣旨に解される。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を参酌して検討する。関係証拠(ただし、司法警察員作成の現行犯人逮捕手続書は、明らかに誤つた記載があること及び各署名が自書でないことを考慮してこれを除く。)によれば、被告人が逮捕された経緯は、既略次のようであつたと認められる。

東京都目黒区○○二丁目三番九号に所在するアパートZ荘(鉄筋コンクリート三階建)二階二〇三号室に居住する独身女性甲女(昭和二四年一一月三日生)は、昭和五六年八月四日午前一時四〇分過ぎころ、隣家二〇五号室の犬が激しくほえるので、浴室の窓の透き間から外の廊下(共用の通路)の方を見て「どなた」と聞くと、のぞき込むようにしていた男の顔が見え、その男(以下犯人という。)は「部屋を間違えたのかな」と言って右(北)隣り(二〇五号室)の方に寄った様子だつた。同女は警察に電話をしようかと迷つたが、結局五分位して一一〇番に電話して不審な男がのぞいていた旨を届け、犯人の特徴として頭髪が薄く、身長が一六〇から一六五センチメートル、年齢三五歳位である旨、白いワイシャツの襟を見た旨を告げた。付近を警ら中のパトロールカー目黒一号に乗務中の警察官D、同Eは、同日午前一時四八分ころ通信指令室から「のぞき」として右事件についての無線指令を傍受し、同アパート付近を走行中、同アパートから約二四八メートル離れた○○二丁目七番一八号付近で前方左側を前方(同アパートから離れる方向である西)へ向かつて歩いていた被告人の姿を認め、追尾した。これより先、右無線指令を受けたパトカー目黒二号に乗務中の警察官Bは、直ちに甲女方へ赴き、同女から更に犯人の人相着衣を聞き出し、そこへ目黒一号のEから無線で照会があつたので、聞いたことを伝えた。被告人を追尾していた目黒一号では、被告人の特徴(前頭部の髪が薄く、白半そでシャツ着用、サンダルばき、なお事後に判明したところでは、運動靴着用のままでの身長一六一センチメートル、当時三三歳)が伝えられた犯人の人相着衣等と酷似していたので、Z荘から約五一三メートル離れた○○三丁目一二番一四号先の交差点付近でEが被告人を呼び止め車から降りて職務質問をし、被告人はアパートへ行つた事実を否認したが、任意同行を求めて被告人をパトカーに乗せ、Dが運転し、一方通行等の関係で回り道してZ荘から約五二メートル離れた○○二丁目三番一二号先の交差点まで連れ戻した。一方Bは、甲女を目黒二号に乗せて同交差点に至り、被告人を路上に立たせて同女に見せたところ、同女は「遠くですのであまりはつきりわかりませんが」と言いながらも、被告人が犯人であることを肯定したので、Dが同所で被告人を住居侵人の現行犯人として逮捕した。その時刻は午前二時ころであつたと推認される。

原判決は、右逮捕手続は刑事訴訟法二一二条一項の現行犯人の逮捕として適法であると認めている。しかし、右の事実によれば、本件逮捕の際警察官にとつて客観的に確実であつたことは、一一〇番による被害者甲女の届け出の時刻に近接した深夜の時期に、前記のように伝えられた犯人の人相着衣にほぼ一致する特徴をもつ被告人が被害者方から約二五〇メートル離れた所を歩いていたということだけであつて、本件犯罪の存在及びその犯人が被告人であるという特定については、すべて被害者の記憶に基づくいわゆる面通しを含む供述に頼つていたのであるから、犯行を現認したのと同一視できるような明白性は存在しなかつたといわなければならない。したがつて、逮捕当時の被告人を同条一項の現行犯人ということはできない。

原判決は、前記認定をしながら、また、かりに同条一項に定める現行犯人に該当しないとしても、少なくとも同条二項一号にいう準現行犯人にあたることは明らかであると説示する。しかし、被害者甲女は、犯人の顔を目撃後、玄関の扉を開けて犯人を確認することすらしておらず、全く犯人を追いかけていない。警察官が連れて来た被告人を犯人と認めたからといつて、これを「追呼」と解することはできない。また本件では、警察官が被害者と連繋して犯人を追呼したと見ることもできない。犯行現場と被告人との連続性が欠けているからである。原判決は、「犯行を目撃した被害者が、額のはげ上がつた身長一六〇ないし一六五センチメートルの白い半そでシャツを着た男という極めて特徴のある人物像を適確に把握し、警察に通報して犯人の逮捕を依頼し」たものと判示しているが、右の人物像が極めて特徴のあるものであるとは思われないし(なお、警察官Bは甲女から白い半そでシャツと聞いたと証言するが、同女は白ワイシャツと言ったと思われ、半そでシャツと言ったことは認められない。そでは見えなかったのである)、被害者がこれを適確に把握したということは、被告人が犯人であることを前提としなければ言えないことである。そうしてみると、被告人は犯人として追呼されていた者とはいえないし、逮捕当時警察官にとつて客観的な証跡等に基づく被告人が犯人であることの明白性は存在せず、誤認逮捕のおそれがないとはいえない状況であつたのであるから、被告人は準現行犯人にもあたらないというべきである。したがつて、本件逮捕は令状によらない違法は逮捕であるというほかはない。

被告人は右のようにして逮捕され、目黒警察署に引致されたが、警察では犯行を否認していた。しかし、翌八月五日検察官に送致され、検察官の取調べを受けると犯行を自白し、右自白を内容とする供述調書が作成された。検察官は同日在庁略式命令を請求し、同日略式命令(罰金一万円、仮納付命令付)が発付送達され、被告人は釈放された。被告人は翌六日右罰金を仮納付したが、その翌日七日正式裁判を請求した。公判では公訴事実を終始否認している。

以上の事実によれば、被告人の検察官に対する右自白は、違法な逮捕抑留中の自白である。このような自白は、右逮捕抑留の影響を受けていないと認めるべき特段の事情がない限り、人権保障の見地から有罪認定の証拠に供することが許されないものとすること、その意味で証拠能力を否定するのが相当であるが、前記経緯によれば、そのような特段の事情は認められず、被告人の原審及び当審公判における供述を参酌すると、むしろ被告人は検察官に対し否認すると更に一〇日も拘禁を続けられると考えて自白したものと推測されるのであるから、被告人の検察官に対する供述調書は証拠能力を欠くものというべきである。なお、被告人は原審第二〇回公判で右調書を証拠とすることに同意していることが認められるから、原裁判所が同期日にこれを取り調べたこと自体は不適法と言い難いが、右同意は任意性を争わないという程度の趣旨と解され、被告人及び原審弁護人がその証明力を争つていたことは明らかであるのみならず、原審弁護人は弁論の中でこれを不法拘禁中に採取された証拠であり排除すべきものであると主張しているのであるから、右同意があるからといつて、その証拠能力を認めることは相当でない。

したがつて、原判決が被告人の逮捕手続を適法と認め、被告人の検察官に対する供述調書を有罪認定の証拠として使用したのは、逮捕の違法性に関する判断を誤つた結果訴訟手続において法令に違反したもので、本件の証拠関係に照らすと、その違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由があり、原判決は、弁護人のその余の論旨(事実誤認の主張)について判断するまでもなく、破棄を免れない。

そこで刑訴法三九七条、三七九条、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により当裁判所において被告事件について判決をする。

本件公訴事実は「被告人は、昭和五六年八月四日午前一時四五分ころ、東京都目黒区○○二丁目三番九号所在、甲女らが居住するアパートZ荘内にのぞき見の目的で、故なく侵人したものである。」というのである。

本件については、被告人の自白を内容とする検察官調書が原審で取り調べられているが、同調書を有罪の証拠とすることができないことは、既に述べたとおりである。

そこで、本件犯行の唯一の目撃者である甲女の供述の証明力を検討する。同女は、司法警察員(昭和五六年八月四日付供述調書)及び検察官(同年九月二一日付供述調書)に対し、犯人は警察官から見せられた男(被告人)に間違いないと述べ、原審第四回公判(昭和五七年三月一八日)において、「風呂場の窓から犯人の顔が、一度に全部は見えなかつたが、はつきり見えた。頭髪が薄く、身長一六〇から一六五センチ位で、年齢三五歳位、それに白いワイシャツを着ていたような気がしたが、その時は顔だけを見た。その顔は被告人に間違いない」旨証言し、同第一九回公判(昭和五八年九月二二日)においては、「警察官が犯人を捕まえたと言ってきた時には犯人だという確信はあつたが、目黒警察署で警察官たちの話を聞いてから、だんだん自信がなくなつた」と言いながらも、他方、「警察では記憶どおり述べた」と証言し、また、「犯人の顔だけでなく上半身も見えた、白ワイシャツを着ていたことは間違いない」、「犯人は窓の横からのぞこうとしていた」など、従前よりも積極的な証言をしている。総じて甲女の供述は、犯人の顔などがはつきり見えたと強調する点に特色がある。同女は、無責任に一一〇番したのではないと主張したい気持ちからそう言うのかも知れないが、もちろんその届け出は真剣かつ誠実にされたものと認められる。

しかしながら、甲女が後に犯人を間違いなく識別できるほど明確に犯人の姿を見ることができたのかどうかについては、疑いがある。原裁判所の検証調書によれば、本件浴室の外廊下に面する窓は、縦六三センチメートル、横四五センチメートルのもので、アルミサッシのガラス戸が付いているが、ガラスの全面に青色の紙が内側から張り付けてあつて見通すことができず、この戸は下縁を軸として開く回転窓の構造になつているが、甲女の指示したところによると、本件当時上縁が窓枠上側から13.5センチメートル(司法警察員の昭和五六年八月一一日付実況見分調書では一〇センチメートル)離れた状態で開いていた。そうすると上方及び両側に透き間が出来るが、外からはほとんどのぞき見できない状態にある。甲女の指示した犯人の立つていた位置に被告人を立たせ、同女が見たという位置、姿勢における同女の目の位置から窓の方を写した写真(同女と犯人との距離は約1.8メートル)には、上の透き間に被告人の頭頂部と前頭部が写つているに過ぎない。もつとも、検証調書には「肉眼で見ると、被告人の頭部より両肩付近までの容貌が、窓上部開いた部分より看取できた」との記載があるが、これは経験則上首肯できない。もちろん、目の位置を上前方に移動させることによつて見える部分が変わり、見える範囲も広がるであろうが、甲女の体格をもつてしてそれがどの程度可能であるかは検証されていない。右検証におけるカメラの位置は同女が背伸びしたときの目の位置であるので、それ以上目の位置を高くすることができるのか疑問である。甲女の検察官調書には「相手が動き、私が目の位置を少し変えたりしたので、全体の顔がわかつた」とあるが、被告人が動いた場合の検証は行われていない。また、甲女が見た位置からは、窓の向かつて右(北)側から外を見通すことは不可能であり、左(南)側からは少しの透き間を通して外が見えるが、その前には洗たく機が置いてあるので、犯人がその向う側へ移動しなければその姿は見えないはずであり、犯人がそちらへ移動したのを見たということは、甲女のどの供述にも現れていない。同女は、原審第四回公判で弁護人の質問に対し、始め「横の透き間から外は見えない、私は上の透き間から見た」と証言したのに、弁護人と論争するうちに「相手の位置によつては横の透き間からもよく見える」旨述べ、結局横の透き間から犯人を見た趣旨に証言を変えるに至つたが、この最後の点は措信することができない。また、同女は右公判で「顔だけを見たが、襟のところまで見えた記憶がある」と述べていたのに、原審第一九回公判では前記のとおり上半身も見えたなどと言い出したが、この後の証言も措信することができない。そして、甲女の検察官調書によると、同女の視力は0.1位で、犯人目撃時眼鏡を掛けていなかつたことがうかがわれる。更に、犯人を目撃した時間は、甲女の同第四回公判供述によれば、「ほんの数秒」だつたというのである。犯人は同女から「どなた」と声を掛けられてその方を向き、同女と目が合い、「部屋を間違えたのかな」と言つて左(北、同女から見て右)へ移動したと思われ、その間せいぜい四、五秒であつたと考えられる。

以上によれば、甲女が犯人を目撃したのは、わずか数秒間、視力約0.1の裸眼で、一度に顔全部は見えないような細い透き間を通してである。見えた範囲は、頭、顔とせいぜいシャツの襟程度であると認められる。同女が、被告人が付近で捕まつたことなどの他の知識を借りることなく、右の目撃の記憶だけで、たとえそれから短時間後にであつても、犯人を確実に識別できたかどうか、甚だ疑わしい(その識別の信用性を担保するためには、数名の他人を加えてその中から犯人を選ばせるべきであつた)。したがつて、少なくとも甲女の供述のみによつて被告人を犯人と断定することは危険であるといわなければならない。原判決は、原裁判所の検証の結果により、甲女の位置から被告人の容貌、体格、身長等を容易に看取することができることは明白であり、甲女の供述がまことに正確なものであることを知り得る旨判示するが、これにも被告人を犯人と想定した上での判断が含まれていると考えざるを得ない。

加えて、甲女の供述中には、被告人を犯人と考えるについていささか疑問となる点がある。第一に、甲女は「犯人は前かがみでのぞき込んでいた」と証言するが(第四回公判)、本件窓の上端は廊下床面から一六七センチメートルあり、被告人が前かがみになつてのぞき込むことは不可能である。第二に、被告人は両眼視力約0.1の近視で、日常眼鏡を着用している(運転免許にも「眼鏡等」の条件が付いている)のに、甲女の見た犯人は眼鏡を掛けていなかつたことである。原判決の説示する変装説は、同じ判決が本件犯行を偶発的なものと認めていることとも矛盾する嫌いがあり、到底首肯することができない。第三に、のぞきの犯人が「どなた」と声を掛けられれば、大概逃げ出すであろう。本件現場では、家の中から見て左(南)の方へ行き、階段を下りることになる。しかし、甲女は犯人が左の方へ行くのは見ていない。被告人であつたとすれば、サンダルをはいていたのであるから、その音は同女に聞こえたはずである。しかし、同女はそのような音も聞いていないようである。これらの点をも考慮すると、同女の供述は、犯人と被告人との同一性を示す証拠としては、原判決の見るほど強い証明力を有するものとは認められない。

もちろん、本件については、直接証拠たる甲女の供述のほかに、状況証拠がある。すなわち、先に認定した被告人逮捕の経緯から明らかなとおり、被告人は、甲女が犯人目撃後間もなく(といつても八分位はあつたと考えられる)現場から約二五〇メートル離れた路上を現場から離れる方向に歩いていたもので、その特徴は被害者が届け出た人相着衣とほぼ一致していた(もつとも、その人相着衣等はごくありふれたものである)のであるから、被告人に本件犯行の嫌疑があることはいうまでもない。しかし、右に述べたとおり甲女の供述の証明力はあまり高く評価することができないのであるから、その供述に右状況証拠を併せても、いまだ被告人を犯人と断定するには足りない。

以上のとおりで、本件公訴事実については十分な犯罪の証明がないといわなければならないから、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

よつて、主文のとおり判決する。

(小野慶二 安藤正博 長島孝太郎)

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